「2005横浜トリエンナーレ」

どうでもいいんですけども。
つい先程、ドラマ、「1ℓの涙」の最終回を目に涙をためながら見た。
そんな後で書く内容が、横浜トリエンナーレというのは、いかがなのか。
感傷的な文章になったらどうしようか今から心配。彼女のように、この文章が誰かひとの役に立っているとは思えないけども、まあ、読んでくれている人たちがいてくれるので、ほんとに感謝しつつ、今回も展覧会のレポートをさせていただきたい。

しかし。
実は今、夜中も遅い時間。そう。ドラマを見ていたから。
そのため、書いている間に朝になったらどうしようか、という一抹の不安があったりなんだったり。どうしよう。
そこで何かいい方法はないだろうか少々考えてみた。
黙々と書いてりゃいいのに考えた。
で、やっぱりたくさん書いちゃった。(談/書き終わった後)


アートは人を楽しませるものではないのか。
はっきり言って、がっかりした。横浜トリエンナーレ。前にも述べた言い方だが、「粗雑」の一言に尽きる。新鋭とはいえ、プロがこんなことでいいのかと本当に嘆きたくなったし、アートとはいったい何なのか、私自身混乱してしまった。
あまりにリアリティがなさ過ぎる。現代アートの特徴としてあげられる、わかりにくさ。だが、わかりにくいものでも「いいもの」というのは何かしらの感銘を受けるものだ。
頭で理解できなくても、感覚が喜ぶ。(ってわかりにくい表現だけど・・・。)「その感覚」が身体を喚起して肉体のリアリティへとアートが還元される。(わかりやすいところでは、胸が高鳴るとか、鳥肌が立つとか、立ちすくんでしまうとか。)
だが、今回の展示物はどうだろうか。まるでどこにも響かない。それどころか、押し付けがましく一方的に主張してくる展示物たちに、私は、そのすべてを跳ね返したくなった。
押し付けがましく感じる理由は、ただ一つだ。制作者は私たち鑑賞者のことなど、何も考えていないからだ。鑑賞者の数に対して、通路は狭く、入り口は小さく、通路は暗過ぎる(アートそのものの)。そして、不案内さ。鑑賞者を無視したこれらをアートと果たして言えるのだろうか。一個人の思考こそがアートの根底であるならば、鑑賞者を無視することも正当なのか。
私には、どちらがどうなのかさえわからない。
ただ、少なくとも今回は、さながら高校の学園祭レベルであったと言ってもいいだろう。
今更ながら補足させてもらうと、決してすべての展示がそうであったわけではない。後半に見られた大掛かりな展示や、巨大な盤上サッカーゲーム等、いくつかおもしろく、考えさせられるものはあった。1800円を支払ってまで見なければならないほどのものではなかったが。
また、技術的な問題から実現はしていなかったが、オランダのアーティスト、マリア・ローゼンが、ピンクの紐で作った髪の毛を生やすというアートを横浜マリンタワーのてっぺんでも行おうとしていた。もし実現していれば、おもしろいものになっていたに違いない。


自治体がアーティストを超える。
というわけで、今回、収穫があるとすれば、それは展示されているアートではない。
自治体が興したイベントに見合うだけのアートを提供できなかった、というアーティストの敗北が起こりうることを知れたことだ。
主催した横浜市の気合いの入れ方と、実行力は素晴らしいと思う。それだけに、なおさらアートの質の悪さが残念で仕方がない。今回ほどの展示スペースを与えられて、自由に好きなことをさせてもらえる機会は、そう多いものではないだろう。もっと素晴らしいことができたはずではないか、考えてしまう。もし、自分ならどうしただろう。今回、来場した人たちが、この次もまたリピーターとして来場するかどうか、横浜トリエンナーレにこの次があるのか、とても心配になる。
企画が素晴らしいのにも関わらず、興行として続かないとしたら、それはアーティストの問題であるのだから。果たして今回、横浜市が想像していた以上のアートを、アーティストは提供できたと考えているだろうか。


アートの市民権。
自治体がアートを都市の発奮材として使おうとしている。日常にしようとしてくれている。その期待に一般の人たちが応える。人の入りは想像以上だった。安くはない入場料を支払って、家族連れ、おばさま集団、中学生、高校生のデートコースとして、「普通に」使われていた。私はその光景だけで嬉しい気持ちでいっぱいになった。楽しんで欲しい。楽しんで帰ってほしい。奇抜なもの、おかしなもの、すごいもの。いっぱい感じて触って感じてほしい。
みんな、アートを楽しんでくれただろうか。楽しめただろうか。まわりのみんながアートに近づいてきてくれている。それなのにアートが、アーティスト本人たちがいつまでも狭い世界に閉じこもっていてはだめだろう。常に高い質のアートを提供し、自らを売り込んでいくにはどうするべきか、みんなを楽しませるにはどうしたらいいか、鑑賞者に負けないように考えなければならないと思う。アートはアーティスト自らの内を表現するものかもしれないが、だからといって、決して本人が楽しむためだけのものではない。
アートとは、本人を含めたすべての人たちを楽しませるためのものだろうから。

またまた極端な論旨ですいませんでした。







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.2005.12.23
COMMENT

(゜∇^*)ノ⌒☆ -=★ -=☆*Merry X'mas*☆
zuboraさん、良いクリスマス過ごしていますか?
トリエンナーレがっかりだったようですね。
アートの市民権‥‥なかなか難しいですね。
アートという幻想に若いアーティスト達が翻弄されているのではないでしょうか?うまく言えないのですが、日本においてのアートと言う概念が客観性にかけていて、面白みをなくしているように思います。
もちろん時代のもつ、雰囲気もアルのですが。
最近は私自身、アートから遠ざかっているのでもっと良く見ないとなぁと思います。(ココに来る度に( ̄Д ̄;;)
そして来年こそはそう言う余裕が生まれる事を願って止みません。
素敵なクリスマスが迎えられている事を‥‥‥。

mine  2005.12.25

~超偶然に見付けたzuboraさんのBlogなんですけど、
拝読してて、「あ。そうかも・・・」と気付くところがあって。

私は元建築系なんですが、今は着物のデザイナーをしています。

来年の夏に、百貨店に出るamiの浴衣のデザイン・・・それは、
自分ではね、すごく面白くなかった。自分の思う所よりも、いわゆる売れセンのデザインだけが採用されて・・・と思っていたのだけれど、

このコラムを読んでいて、「はっ」と思ったんですよね。
自分の世界観ってのは確かにあるんだけど、そうでなければデザイナーってやってられないんだけど、よくよく思い出してみると、浴衣を着る人のことを考えて、そこを発露にして描いたものって大事なんじゃないか、って。単に売れセンに迎合するとか、そういう、んー。高飛車な考え方を超えた「私のデザイン」というのかな。。。

上手く書けないけど、すごくピュアな気持ちになれました。
とても感謝しています。

mineさんの「客観性に欠けていて」
う。そうかも。その通りかも。

ステージが与えられちゃうと、見えなくなるところ、あるんですよね。。。

でも、嬉しい。ただ批判されてるだけじゃないと感じるから。

ami  2005.12.26

mineさん、amiさん、感想ありがとうございます。
アートの概念・・・。ってほんとどんなものなのだろうかと(かなり長いこと)考えてしまいました。
そしてamiさんのお話と・・・。

私の個性、私のデザイン。気張らずに、自然に生み出されるものをそう呼びたいな、と思いました。アートにしろデザインにしろ建築にしろ、そんな自然に出てきたものって、言語化できないけどなんとなく伝わるような、深澤氏の言葉を借りれば、「見えないけど、言われればそう見えるかも。」みたいな、不思議な共有感がある不思議なものになっているような気がします。客観性ではないんだけど、独走でもないような。
そんなものって、みんなもいいって、思ってくれたりする。
派手さとか、流行りとかとは、ちょっと違うのに、すごく目に残しててくれてて、そんで、しまいにゃ売れちゃったりなんかしちゃったり(笑)。

厳しい現実を知らない私の理想論ですけど、数少ない実践で得た確かなことでもあって。
なんだか、よくわからない独り言になっちゃいましたけど、お二人のお話から、ぽよよ~んと、そんなことを感じて、心がポカポカしちゃいました。

返事が遅くなってしまったので、
MerryXmas!改め、「よいお年をお過ごし下さいm(_ _)m」ですね。

というか、デザインした浴衣が百貨店に出るなんてすごいじゃないっすかっ!!?amiさん!!∑(!o!)

zubora  2005.12.27


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