【まつもと市民芸術館】(2004)

近づかないと本当にわからない。ここらへんにあったはず、と思って左右を見渡しながら車を進めて、あれだっ、って発見した時には何百メートルもない。
そんな狭く細長い敷地に窮屈そうに建っているのが、まつもと市民芸術館である。
この建物は、TOD'Sよりも前に計画されていて、その後の TOD'S やミキモトなど、いわゆる壁に穴開けた建築(?)へと発展していくその最初の建築である。

松本駅から延びる幹線道路沿いの敷地は、南北に長く、道路側を口としてワインボトルのような形をしている。周囲は既存の建物で囲まれていて、特に南側(ワインボトルの底側)には民家が集中している。そのようなおおよそオペラ公演を行うスペックを持つ劇場の敷地とは思えない場所である。

計画は10チームほどのコンペで競われ、伊東豊雄氏が満票を獲得して勝ち得た。
その絶賛されたという計画は、ワインボトルの敷地にゾウリムシのような平面を持たせ、連続性と隙間を創出した。そしてオペラを始め規模の大きい公演用の大ホールを敷地の中心付近に寄せることで周囲への圧迫感を無くし、且つ裏表のない建築を作り出すというものであった。これによって道路を無駄に拡幅し周囲の木々を伐採するといった必要を無くしたことなど、敷地環境が持つ諸条件への解答は完璧であったとされている。

まあ、そんなことは本を読めば書いてあることで。
私はただ素人的な視点と直感であるなしを書くだけである。

で。
これ?

いや、「なし」とは言いませんが、












ふ〜ん。(∵)












みたいな。












もうちょっと感じよく言えば、












はぁ。(・_・)?












みたいな。












この建築は企画された時点ですでに諸条件の解答が最も優れていることが設計において最重要項であったことは間違いないと思う。もしかすれば、企画者たち自身(施主)が本当にこの敷地に計画可能かどうかですら判別不可能であったかもしれない。
判断が着きかねるからこそプロである建築家に解答を求めたのだろうし、そういった、いつもは必要性を疑われる存在として扱われる建築家が、必要とされたことはとても素晴らしいことだ。一方で邑楽町の事件のように建築家の存在を否定するような指導者がまだ存在していることを思っても、これは重要なことであったように思う。
それはデザイン性と、定数化できうる諸条件(斜線制限等の法規や採光、プログラムに対する機能性など)との板挟みになりやすい(結果として劣悪な建築ができることも多い)、他の公共建築のコンペよりも明確に判別が可能なコンペであり計画であったということでもある。
そういった点から、この実際に建築された「まつもと市民芸術館」を否定するつもりはまったくない。だいたいこれ以上の設計案が容易に可能だとも存在しているとも思われないし。

ではなぜ私の感想が、ふーん、はぁ止まりなのかといえば、その場の演出を豊雄氏がすべてコントロールしようとしているから、である。
非日常性という演出と、そのためのシークエンスの創出とはつまるところ遊園地と同様である。受け手がどう捉えるかを知り尽くしている演出家の舞台と同義である。つまりこの建築空間には、こうすればこう感じるはずだろう、こんな感じでいいはずだ、という伊東氏の思考がなんとなくうかがえるのである。
もちろん逆に言えば伊東氏の膨大な経験則と卓越したセンスを体験することができる空間なのだが、そもそもこの狭い敷地で遊園地的演出が必要であったのかという根本的な疑問にどうしても行き当たってしまうのだ。

豊雄氏は一般の来館者が受ける感覚を知っている。もしくはそれをコントロールしている。
そしてそれをただ一つのデザインに担わせた。
ランダム性と多彩な表情という演出をうたった外壁(内壁)パネルである。
この壁自体、結局は意図した範囲を逸脱することなく作られているというのも問題だが、それ以上に問題なのはこの壁だけで演出をしようとしたことではないだろうか。

建物のおおよそが一度に視界に入りきるくらい狭い床面積に対して、外壁パネルのみで非日常性を演出するというのは、出来損ないの遊園地と同義だ。半日もすれば乗りたい乗り物など無くなってしまって再び訪れる必要性を見い出すことができないように、壁というワンアイデアだけで空間の質や非日常性の演出まで賄ってしまえば、一回の体験ですべて知り尽くしたように感じてもおかしくはない。建築に限らず、また正確かどうかに関わらず感覚的にそのものを理解したと感じた時点でそれへの興味は半永久的に失われるのである。
さらに言えばこの壁は、外観も担っているのだから、内も外も一度で、一見でその興味を失ってしまうという恐ろしいデザインといえるのではないだろうか。

しかし私は、演出すること自体を決して否定しているわけではない。
劇場とはやはり非日常的な空間であって欲しいものだと思う。映画館に足を運ぶ程度でさえロビーに入れば自分が高揚しているのがわかるものである。ことさら観劇ともなれば、それ相応の演出を求める気持ちも十分にわかる。ここまではまったくもって首を縦に振るしかない。
だが私がこの建築で否定的なのはその次なのだ。
それは、豊雄氏の演出が中途半端なところである。
この建築からは、人が高揚するほどの非日常的な演出力を感じないことが問題なのである。
ディズニーランドにはほど遠い。
もしくは、ディズニーランドになろうとしていないにも関わらず、非日常的な演出を感じさせるデザインを選択してしまった。どちらかである。
壁に穴を開けるワンアイデアと大階段の空間は伊東豊雄氏らしいシンプルで遊び心のある構成だが、それだけにこれまでの公共建築と同様の印象しか受けない。
劇場としての特別さ、非日常性が感じられないのである。
だから、そんなふうに、つまんない遊園地に行ったとき、中途半端な演出を押しつけられたとき、出る言葉は一つでしょう。












...はぁ?( ̄ω ̄;)












▼とって付けたようですが。
夜間のライトアップなどは、デートスポットになるくらい綺麗でした。
そこらへんのセンスは改めるまでもなく感心の一言です。


ranking




.2006.05.18
COMMENT

実際にみてみたいですね。「まつもと」、「せんだい」、「ふくおか」、あっ、伊東ふぁんなので。

内外をガラスというこれまでの透明さによる内外の関係を繋ぐものとしてでない形で埋めようという思索からうみだされたものがGRCなのでしょう。ただ、ご指摘の通りランダムといいつつもいくつかのパネルのくり返し使用だった気がします。

中央に搬入をもってくる平面計画は見事だと思いました。プログラムがあまりにもうまくすすんだために内装を欲張ったのかもしれませんね・・・・

pires  2006.05.24

欲張るのならもっと、欲張ってもらいたかったというのが、正直な感想だったりします。
職人的な技術であったり、現場の積み重ねによって無二の建築が出来上がっていくという脱モダンスタイルを意識しているのであれば、もっと違ったものになっていないといけないと思うんです。その後のプロジェクトを見てもバリエーションとして括れてしまえますし、期待していたほど発展的な思考ではないのではないかと考えてられます。
残念。
いち伊東ふぁんとして。

zubora  2006.05.26


ご利用のブラウザ、設定ではご利用になれません。