【兵庫県木の殿堂】(1994)

お寺を後にした僕らはそのまま北上した。
目指したのは安藤忠雄氏設計の「木の殿堂」だ。

木の殿堂は、能勢妙見寺よりもさらに奥深い山の中にある。名前からも察しがつくと思うが一体は木材の産地となっていて、建築にもふんだんに木材(スギ)を使用している。
直径46m円形リング状の平面は、円中心上部に向かってすぼまる。立面上で見れば等脚台形だといえる。
リング状の平面の内円は中央を等しくした直径22mで、ここは吹き抜けとなって空に開かれている。
つまりバームクーヘンと言えばわかりやすいかもしれない。二重の円を描いて、中心部が外部の吹き抜けなのである。
一本の細い直線状の道が二重の円を突き抜けるように通り、トンネルをくぐるとこの円の内側の外部の吹き抜けになり、そのまま橋のようになっている。見下ろすと一面水盤が張られているのが見える。内円の底部には、地面が掘り下げられ、水が張られているのがわかる。建物が半分地中に埋まっていて、地上面から数メートル下、水盤と同じ位置に建物の床があるのだ。建物の内部はバームクーヘンの身部分に当たっていて、展示、工作室などが入っている。天井は高く16mからなり、極端に多い無垢の木材の柱が床から延びて組まれた梁を支えている。外壁は緩やかに内側に傾いているから、パースがかかってさらに高さを演出しているようだった。
橋を渡り反対側の身部分をくぐっても、道はまだ奥へと続いている。
その先は建物を含めて周辺の緑の景色を楽しめる展望台になっていた。


僕らはその展望台に上がり、景色を眺めた。そして、さて今回はなんの話をしようかな、と考えた。
つまり、今回建物内部の話はしない。我ながら斬新過ぎだと思うが仕方がない。

ここは、体験施設のようだ。対象は子供だろうから、きっと地元の小学生なんかは体験学習なんかでマイクロバスにどんぶら揺られてやってくるに違いない。僕が思うに彼らは数多くのことをこの施設で学び、知るのだろう。
僕もここで考えさせられたことがある。
辿り着いた記念のためなのか、資料としてなのか、使用用途のよくわからない写真を漠然と撮っている以上でも以下でもない気持ちにさせられた。建築を体験するというのは本当に難しい。

僕は隣の友人にその同意を求めたが、魂が身体から半分ほど抜けかかっているのか、自ら作り出した白い煙を虚ろな目で眺めて、「灰皿どこだろう」と答え、僕らには無駄に言葉を吐き出すほどのエネルギーも余ってないんだよ、だから静かに眺めていればいいんだ、そう、考えちゃいけない、疲れるし...、とごちゃごちゃ呟いた。
彼はそろそろお昼ご飯が食べたいらしい。

目線を正面へと戻すと、景色の隅で動くものが見えた。マイクロバスがくるようだった。バスは山道をのろのろと上ってくる。よくは見えないが乗っているのはそのシルエットから小学生だと思われた。きっと低学年、もしかしたらもっと年長なのかもしれなが、ここからではよく判別できない。学校の机で教科書を開く毎日の中、やはりこういうイベントは特別なものだ。子供たちはみな思い思いに嬉しさを表現しながらこのイベントを楽しんでいるように見える。
その雰囲気にあてられているのだろう、運転手やガイドどころか、バスから吐き出される排気ガスの煙も楽しそうにぼおぼおしている。真っ黒な排気ガスが舞い上がる。バスはえんえんと煙を吐き出しながら駐車場までやってきた。きっとディーゼルエンジンなのだろう。東京には入って来れまい。ゆっくりとバスは駐車場へ入る。ブレーキとアクセルを繰り返すたびにやはり、ぼう、ぼうと排気ガスが立ちあがった。

「ここ、なんの体験ができるんだろう」
僕は友人に話題を提供した。
「え?誰が?」
友よ、魂を掴んで離してはいけないよ、とは言わずにバスを指差して説明した。
「あのバス。小学生が来たみたいなんだよな。だから何するのかな、と思って」
友人は、ああ、あれか、と了解したがすぐに興味をなくしたような声で言った。
「生きることの理不尽さと矛盾をこの建物から学びにでもきたのさ、きっと。仕事をするためにはまず仕事を作らなきゃならない、ものごとに大事なのは必要性よりも需要と供給のバランスが保たれていることなんだよ、そのためには動植物を犠牲にしても問題ないんだ、最悪人間でさえもね・・・なんて教えるの。ふふ。」
しゃべったと思ったらこれか。
「そんなこと学ばされたらあの子たちの笑顔が吹っ飛ぶね。というかそれは体験とは言わないし」
「いや、だからわけもわからず連れてこられて、木片を与えられて、これで好きなものを作ってみよう、なんてやるわけでしょう。のせられた子供たちは必死に作る訳だ。自分の創造性を信じてね。そして脇目も振らずに作り続けて、これはすごいぞ、上手にいっているぞ、みんな驚くぞ、もうあと少しで完成だ、なんて思って。完成間近になってふと周りのことが気になって、手を止めてふいって回りを見渡すんだ。そこで彼らは痛感する。自分の創造性の限界を。いや、まだ他人よりもひどい作品であればいいのさ。彼らの大半は、どれも同じ、まったくもって凡庸の一言に尽きる作品を生み出していたことを知って絶望する。そしてこう考えはじめるんだ。あれ、ぼくは何をしているんだろう?なぜ得意でもない工作をしているんだろう。そもそもだ、そもそも山奥まで来て、どうして建物の中で木材と木片に囲まれて僕の凡庸さを知らされているんだろう、この冗談みたいな皮肉はないぜ、先生たちよ。この創造には必然も価値もないじゃないか。あるとすればやったっていう事実に対する自分への評価だけだよ・・・。そんなのはテスト前だけで十分だ。せっかく山奥に来たんだから土まみれになって楽しみたいのさ、こんなことは学校でいいだろう?なんてな」

「設定が小学生だとは思えないが」

「そうして、子供たちは気づかされるわけ。ああ、大人たちのやっていることもこの延長に過ぎないんだ。この建物の意味は増加した雇用の需要に対する供給でしかなく、僕らがここにいるのは、天秤の重りみたいなものさ・・・どう好意的に見ても資本社会の排泄物からは遠くないよ、なあ、たっくん。なんてね」

「たっくん?」

「21世紀の悩める少年の友達。2組のタダオくんだから、たっくんさ。なあ、それよりもよく見ていると、あの子たちはもう高学年ぐらいに見えない?そうだとすると、もう一歩踏み込んだ学習もすると思うんだけどな」

「ね、って言われても。なに、それ」僕は彼の悪ふざけにつきあうことにした。いや、こいつの場合これが悪ふざけかどうかも怪しいが。

「だからさ、木が豊富だからと大量の木材を使って、シンボリックな建物を作ることの矛盾さを身をもって学ばせる
んだよ。森を潰して生息地域をアスファルトで分断させて、駐車場のために土を掘ってるのが、木や自然が豊富だからという理屈から始まっているんだったとしたら、これはどこか矛盾しているんじゃないか、シニカルってこういうことを言うんだよ、なんてね。理科も社会も国語も学べたな」

バスから降りた子供たちは、クモの子が散ったように好き勝手はしゃぎながら徐々にではあるが建物へと進んでいく。どうやら引率の教師も統制をとることをはなから諦めているように見える。

「あの子たちが、そんなこと考えているように見えるか?」

「ほんとだよなあ、先生というのは残酷だよ、あんな小さな子供に、これからそんな悲しい現実を突きつけるのだから。だけど、あの子たちだっていつかは互いに仕事を与えあわなきゃいけないのさ」

友人は細く煙を吐き出して、それを追うように細い目をして空に視線を移して当然のように妄言をはく。
しかし残酷な妄想ごっこしているのはおまえだ、などと言ったところで端から聞いてなどいないだろう。僕はもはや何も言うまいと諦めた。彼は短くなったタバコをコンクリートの床で押しつけて消した。一瞬、灰皿を探すように顔を上げかけたように見えたが、そのまま側溝につま先で運んで落とした。グレーチングの隙間から溝を見たが、思ったよりもきれいで、吸い殻はそれほど見あたらなかった。

「これはさ、つまり、水が豊富だから毎日風呂桶いっぱいに水を張っては捨てる、っていう理屈と同じことなんだなあ。水があるんだから使うし、木が豊富だから木造にしようと思う。だからさ、それは間違ってはいないと思うんだよ。うちらの文化は水と木の文化さ。誰だって知っていることさ。だけど、だからこそこの矛盾を解消することはできないんだよな」

少しの間をおいて彼は、ああ、そんなこと教えなくても子供は無邪気に遊びさえすればいいんだよ、と締めくくったので、何をどこまで本気で言っているのか僕にはわからなくなった。

彼が言っていることは極端ではあるが、さして間違っているようにも思えない。いや、間違っているかいないかの問題ではないのかもしれない。クライアントが、ある場所を指差して、おれここに建物建てたい、と言うのは自由である。その欲求を否定することは設計者の役回りではない。そのような意味では、設計者は操り人形に近い。からだじゅうに付けられた天から延びる無数の糸が、多くの自由を奪い意思とは無関係に操られて嘆く。設計者は、「建物を作る」という彼らの欲求を大前提として生かされている。与えられた自由は、「より良い建築を求めること」以外にはない。

では、よりよい建物とは―。

よりよい建物とはより人が集まることだ、と思う。より多くの労働を与え、より多くの雇用をし、より多くの人が足を運ぶこと。それは、つまり多くのゴミを集め、排気ガスを吐き出させることを求めていることになる。そして捨てられる吸い殻も増えていく。実に明解な話だ。
原生している植物を掘り出して新たに植え替え、地面を掘り起こしてアスファルトで埋めて、山を掘って水道管を突っ込んで、鉄塔を作って山の上に電線を引っ張る。ゴミが増えれば掃除する人を雇うことができる。車が増えれば誘導員を雇うことができる。植物を掘り起こす人、植物を提供する人、水道管屋さん、鉄骨屋さんに電気屋さん・・・。作業は多ければ多いほど、いい。それで人は生きていくことができる。
改めて考えれば、当然すぎてなんだかおかしな話だと思った。

「そろそろ行こうぜ、俺のからだの燃費はこの建物並みなんだよ」

そう言いながら、彼は上ってきた階段へと歩きだした。

僕はすぐには動きださずに、友人を目だけで追う。友人は知ってか知らずか、吸い殻を掃除する仕事を作っていることになるのだろうか。そう思ったが、すぐに打ち消した。都合よく考えすぎだな、それは。
僕は声には出さずに薄く笑い、彼の後を追った。

設計者は無邪気なもんだな。なあ、たっくん。
水盤の上に架かる橋の上で子供たちがはしゃいでいる。その笑い声はバームクーヘンの上の穴から抜け、山に響いた。




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.2007.08.13
COMMENT

安藤的建筑里存有一种强大的力量,很欣赏,你的博客真好,我也有个博客,http://blog.sina.com.cn/archfan,希望和你成为朋友。
ちょっと! 親愛なる友人、私はあなたの存在BLOGを歓迎する

Anonymous  2007.12.20


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