「建築の主観」

prifile03.jpg

久しぶりに文章を書いてみる。
最後に書いてから2年以上経ってしまった。


ブログを積極的に書いているときでも更新頻度が高いとはいえなかったので、文章を書く習慣は今も昔も無いのだろうけど、改めてこつこつと書いていきたいと思っている。


改めて自分の産み落とした稚拙な文章を眺めると、建築に対する主観の暴走が目に痛い。しかしそれだけ「何か」を考えていたということだけは言えそうだ。何に媚びることもなく悪びれることもなく、ただ建築を見て、体験して、それを書き記すこと。そのどこにモチベーションがあったのか今となってはよくわからないが、建築への主観を吐き出し続けることの重要さと難しさは今だからこそよくわかる。


ある建築に対して主観を述べるということの必要性はどこにあるのだろうか、それがわからなくなってこのブログは途切れた。しかし最近になって改めて思う。主観によって建築は成り立ち、芸術家の作品よろしく、見る人を選んでいるようで、その実どのように見られたところで作者本人の作品に対する解釈と愛着が曇らない限り他人の主観など痛くも痒くもないのだろうと。
建築家同士の対談などで、毎回あるテーマを据えて対話的に書かれる文章が建築雑誌にはよく見受けられる。それは本人らが産み落とした作品への理屈付けと相互理解を推し進めるデキレース的な文章といってもよく、表層を幾重にも積み固めていった建築言語のスクラップの山でしかない。極端に言って本人同士が思考を整理し次の発想を飛躍させるため以上の意味をもたないエンターテイメントである。


だけど、それらを含めた建築を取り巻く文章が発想の根源となることはきっとないのだろうけど、もし大衆エンターテイメントとしての役割を担うまでに昇華させることが出来れば建築の世界は今より単純に面白くなる。そしてもしそうなったとしたら、内輪に籠もりがちな現代の建築業界を打破する重要な役割を持つ。それは発想の根源となることなんかよりもよっぽど重要で、素晴らしいことだろうと思う。


建築とは、そんなに難しいことではないと思っていたい。
建築を体験することに理屈も法則もない。単純さ、でたらめさ、面白さ。
それだけを見続けることと、わかりやすく伝えること。
建築理論などと大仰な分類で排他性を持たせるのでなく、普通に、自然に。
それがブログのタイトルでもある、間違った建築の歩き方、なんだし。


ranking




.2010.11.01
COMMENT

はじめまして。
先日初めて訪問させて頂き、それから少しずつ拝見させて頂いております。
芸術全般が好きで、建築にも少し興味があるので、
大変興味深く読ませて頂いております。

建築への主観を吐き出すことの意味の有無はどうあれ、
深く考察されたzubora様の主観に触れることは、
少なくとも私にとってはエキサイティングです。

私の希望を言っても仕方ありませんが、
たまにでも更新して頂ければ嬉しいです。

stark  2010.11.19


ご利用のブラウザ、設定ではご利用になれません。